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ゼミ課題読書感想文

三原 直也 201204

 


 

プロタゴラスとソクラテスの議論の不完全性について

 

「最初は真似みたいなところから始まりますよね。いろんな人のフォームを真似たりして。何となく今の自分がいるという感じはありますよね。」(イチロー 『イチロー262のメッセージ』)

と、大リーグマリナーズに所属し10年連続200本安打を達成したイチロー選手は言った。

特別に優れた徳の持ち主とは、徳を表出する要素をア・プリオリに身につけているのではなく、「徳」を顕在化させるような要素(元)というものを多く見抜きまたそれを身につている人々である。

「徳は教えることができるか、又は出来ないか」というソクラテスとプロタゴラスの問答には、「徳は教えることができるか出来ないかの二つ」という前提がある。しかし「徳は教えることが出来るかもしれないし出来ないかもしれない」という判断も論理学的観点から下せるのではないだろうか。

私は、所謂「徳」というものは、アレテーを表出する潜在的な要素(元)iの相互関係による写像と捉えており、また特別に優れた徳の持ち主とはそのような要素をア・プリオリに身につけているのではなく、「徳」を顕在化させるような要素(元)というものを多く見抜きまたそれを身につけようとする人々であると考えている。

例えば、徳というものが顕在化するとき、P<Q)Pは優れたアレテーが顕在化する基準定数値、Qは要素(元)iの相互作用による徳に関する力を一元化したものの総和}(※1)が満たされるとすると解りやすい。

そしてこのことは、先に述べたエピソードにも通じるものがある。つまり、数多くの要素を身につけるためには上手い人のフォームを真似て、そこからその要素を身につけることが効率的であるのだ。

では、「徳」同士には関係がないのだろうか。プロタゴラスは「関係がない。」と語る。しかし、ソクラテスは、「正義のアレテーを持っているのならば、敬虔のアレテーも持っているのではないか。」と語り、「徳同士に関係がある。」と語る。

だが、このソクラテスの議論は推測でしかない。何故なら、あるAが存在するならBが存在する。というロジックはBAという関係を証明しなければ成立しないからだ。

これについては私の説明したモデルで説明できる。つまり、「徳」を写像するある要素(元)を他の徳と共有しているのならば、その徳同士は関係があると言える。そして、もしそのような要素がないのであれば、残念ながら関係がないと断定せざるを得ない。

以上から、このソクラテスの「徳は教えることが出来ない」という考えであったのに、プロタゴラスとの議論で「徳は教えることが出来る」という結論に至った理由は明白であろう。

(※1ただ、このモデルを使った「徳」の説明に対しては「反証可能性が存在しないではないか。」という反駁が加えられるであろう。この反論に対しては、「このモデルというのは徳を説明するための便宜的なものであり、また衒学的なものではない。」とする。)

 

 

『引用文献』

イチロー 262のメッセージ、2005、ぴあ出版社、『夢をつかむイチロー262のメッセージ』編集委員会

 

 

江戸川乱歩傑作選(新潮文庫)

 

「提灯の火がやっと届くか届かぬかの薄暗がりに、生い茂る雑草のあいだを、真黒な一物が、のろのろとうごめいていた。そのものは、不気味な爬虫類の恰好で、かま首をもたげて、じっと前方をうかがい、押しだまって、胴体を波のようにうねらせ、胴体の四隅についた瘤みたいな突起物で、もがくように地面を掻きながら、極度にあせっているのだけれど、気持ばかりでからだが言うことを聞かぬといった感じで、ジリリジリリと前進していた。」

江戸川乱歩の「芋虫」という作品にこのような描写がある。「真黒な一物」が芋虫ならば、想像するにたやすい。だが、もし、「真黒な一物」が芋虫でなく、四肢の無い片輪であったらどうであろうか―。

敢えて擬音語、レトリックを多用しながら鮮明に描こうとする乱歩のグロテスクな作品描写には、彼の作品に暫し垣間見られるサドスティックな性癖が読者に向けられているのでは。と、ふと感じた。

 しかし、私たちは彼の作品に潜む性癖の不愉快さにも関わらず、彼の作品の虜になってしまう。

一体私たちにそう感じさせるものは何か。

 まず一つ挙げると、彼の作品の完成さにある種、芸術性を感じざるを得ないからである。

彼の作品(少なくとも傑作選にあるもの)は、非常に完成度が高い作品が多くその物語の完成度もさることながら、文学的な表現に芸術性を感じざるを得ない。

そのようなことを感じる要因には、乱歩があまり心情描写をそのまま書くことは少なく、深層心理を行動で暗示しようとすることが一つ挙げられる。読者の創造力を掻き立て追体験を半強制的に促し、それゆれ、惹かれてしまうのかも知れない。「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」の心理描写の描き方に感銘を受けたというが、それは端々から読み取れる。

そして、彼の代表作「人間椅子」が顕著な例だが、彼は「変態」を描くのが上手い。我々はその「変態」の行動、心情を追体験しまるで自分が「変態」なのではないかと暫し錯覚させられる。自分がまるで「変態」なのではないかと疑ったときのその人物の「性癖」は理解できなくとも、「背徳感」がひしひしと人物から伝わってきて、内心「にやり。」とさせられてしまう。

              背徳感はペルソナの下に微笑を浮かばせる。

江戸川乱歩の推理小説に潜む、トリックが分かっているにも関わらず読み返そうとさせるものは、ある種の人間の本質―すなわち、背徳感や愛憎など―を鮮明に描いているからなのかもしれない。

 

 

罪と罰

 

「罪と罰」は「近代的合理主義」に対するアンチテーゼを、合理主義者に対し挑戦状を叩きつける。

19世紀、キリスト教という「大きな物語」が、ニュートン力学などから始まる合理的な自然科学により崩壊し、キリスト教内部に潜むニヒリズムがヨーロッパを覆った。

例えば、ニーチェはこのニヒリズムの解毒のために、「永劫回帰」という極端なニヒリズムをホメオパシー的処方箋としようとした。

 また、優生学という学問が誕生したのもこの当時である。その思想はナチズムと結びつき断種法、ユダヤ人大量殺戮などに形を変えた。ラスコーニコフの選民思想にドストエフスキーが抱いたであろう優生学の危険性の示唆が読み取れる。

 私が考えるにこのドストエフスキーの合理主義者への批判は痛烈なものであったように思われる。何故なら、当時の識字率というものはかなり低いものであり彼の「罪と罰」は当時の教養のある合理主義者へ向けて発刊されたと推測できるからである。

  さて、ここで「一人の優れた人間のために多くの凡人が犠牲になっても良い」というドストエフスキーが作中で提示した命題の埃を掃ってみよう。彼が提示したこの命題は非常に恣意的に結論に結び付けるものであり、あくまでキリスト教的世界観の理性主義への優越を示すための道具であったのだから(彼自身ロシア正教徒であった)。

ここで、「道徳」という観点から考えるのは控える。何故なら、「道徳」というものは社会的権力者によって生み出されるイデオロギーであり可塑性が高いものであるからだ。また、そもそも「善」とは人其々異なる。例えば、エンパイアステートビルにハイジャックした飛行機で突っ込み「ジハード!!」と叫ぶ人々だって、その行為が彼らにとっての「善」であるから行うのだ。

ではこの命題を否定するのに、「自然権」を無視し、法を侵害しているからという意見はどうであろうか。だが、「自然権」と多数派の定めた「法」が対立するとき、どのように振る舞えばいいのか。

 次に、絶対的な道徳の存在を考える。

「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理と 見なされうるように行為せよ」というカントならば、人間の理性を尊重し、理性から生じる「義務」によって行動すれば「善」は一致すると主張するだろう。私利によって、経験的なものによって、判断することは行ってはならず、それ故、ア・プリオリに存在する理性によってのみ判断が正当化される。

だが、これはあまりに「理性」に重きを置きすぎではないだろうか。理性は万能ではない。        

ここで、私は、問題ごとに「善」と「正義」のどちらを優先させるのかを決めるのがよいという相対主義的アプローチをとる。

だが、どのように「善」と「正義」を使い分ければよいのであろうか。よくある結論としては「『想像力』を使う。」というものが存在する。だが、現実問題としてそのようなものは机上の空論でしかない。

「善」に普遍性を求めることが出来ないのならば「正義」に黄金律を求めよう。

これからの「正義」の話をしよう。             

「正義」はどのように決められるべきなのであろうか。

1.ベンサムに始まる功利主義的アプローチ2.ロールズのような選択の自由を尊重していくアプローチ3.サンデルのような共通善を模索しそれを正義に生かそうとするアプローチ

これについてはここでは結論がでなかったので、アマルティア・センの「正義のアイデア」を使った橋本先生のゼミの議論を通じて結論を出したい。